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最近、忠臣蔵にまた興味を持つ

昭和の生まれの方は、昔は年末やお正月に「忠臣蔵」がテレビで放映されていたことを 覚えているかと思います。

1701年3月14日に、赤穂藩の藩主である浅野内匠頭(浅野長矩)が松の廊下で、吉良上野介に刀で切りつける といういわゆる「刃傷」事件を起こしたことに物語は始まります。 なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったかは諸説あるものの、その理由を断定できる資料はないようです。 何かしらの怨恨があったと思うのですが、時の将軍・徳川綱吉は私情に任せて、 何の裁判もすることなく浅野内匠頭を切腹させ、その日のうちに、赤穂藩のお家取り潰しの決定。 対する吉良上野介には何のお咎めもなしという判断となりました。

この私情を挟んだ幕府側の決定に納得がいかず、浪人となった赤穂の志士たちは、 その1年と9か月後、1702年12月14日(実際には、15日の朝方4時ころ)吉良の屋敷に討ち入りし 見事、主君の仇である吉良上野介の首を取ったという話です。

忠臣蔵に、再度興味を持ったキッカケは、最近になって、松の廊下の刃傷事件の資料が見つかったものの、 やはり浅野内匠頭が斬りかかった理由についてはわからなかったという結論が出されたという ニュースを見たからです。

理由はわからなかったということで、なぜ興味が湧くのかは疑問に思われるかもしれませんが、 最近見つかった資料によると、刃傷事件が起きてさほど時が立っていない日の記録として、 吉良上野介の容体が随分良いので、お見舞いに行くようにという指示書のようなものだった ようです。つまり、赤穂藩が丸ごと潰されるような事件だったわりには、致命傷になる傷ひとつ 負わせることができなかったということです。

あのとき、浅野内匠頭がもうひと頑張りして、吉良上野介を仕留めていれば、 この忠臣蔵という物語は歴史の表舞台に出てくることはなかったかもしれません。

この事実からいろいろと推察してみたくなったのでした。 歴史の研究家の皆さまの気持ちとしては、赤穂事件の真相は知りたいと思うはずですが、 この肝心の理由が不明のまま、記録が残っていないということが、現代の我々の想像をかきたて、 いろいろ考えさせられることになっていると思います。 もちろん、私も真相を知る資料があるのであればぜひ知りたいのですが、 謎のままであってもいいなとも思っておる次第です。